戦後80年、加害と被害の歴史が入り混じる満州引揚げの検証は、まだまだ道半ば
ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』(https://kurokawa-onnatachi.jp)を観ました。
満蒙開拓団として第二次世界大戦前から終戦までに中国満州の地に渡った日本人はおよそ27万人と言われています。本作は、そのうち、岐阜県の白川町黒川から送り出された開拓団に起きた戦争被害と加害の告発の記録です。
500人ほどの黒川開拓団が帰国するために、若い女性たちがロシア兵に性接待として差し出された事実、帰国後に性被害にあった女性たちが受けた蔑みの眼差し、その苦しみまで押し殺してきた女性たちの心情が70年以上の歳月を経てやっと語られ始めたのです。

実は、私の母は5歳の頃に満州から引揚げてきた家族です。終戦時に小学生高学年だった母のすぐ上の姉(私の伯母)は、当時の記憶が明晰で、私は今年4月から伯母の話の聴き取りを始めました。
その話の中で何より衝撃的だった逸話が、この『黒川の女たち』と同様に、ある女性が戦争被害で人生を翻弄された内容だったのです。
終戦後1年、伯母や母たち多数の日本人が帰国するための船が、葫蘆(ころ)島から出航する際のこと。なかなか船が出航させてもらえず、乗船していた帰国団の長が中国人と交渉したところ、3人の若い普通の日本人女性をその地に置いていけという条件が出された。
船を出航させるため、長はまだ17,8才だった自分の娘を、あと2人の日本人女性と共に降ろし、そして船は出航した。
娘さんは色白のとてもかわいいお嬢さんだったと、伯母は語りました。
その1年後に、中国に残されていた祖父が日本に帰国する際、そのお嬢さんを連れ帰ったということです。しかし、帰国したその港の地で、娘さんは赤線地帯に入って行った、「ここでしか生きられないから」ということだった、と。
その娘さんはその後どんな人生を歩んだのでしょう。
両親と共にいた船から異国の地に1人降ろされ、どのような環境の中で過ごされたのでしょう。
帰国した時に娘さんが選択した道は、人として、1人の女性としての尊厳が踏みにじられた結果として、戻ってきた祖国でももはや普通に受け入れてもらえないことの予想として、追い詰められた選択でしかなかったのではないでしょうか。
同時に、大切に育てていた娘さんを集団の長として船から降ろしたその親御さんとしての気持ちは、苦しくて想像もできません。

戦後80年、ここ数年、やっと満蒙開拓団の話を目にする機会が増えてきた気がします。
同時に、開戦前に、日本は欧米を敵にしたら必ず敗戦すると分析されていたにも関わらず、
戦争に突入した背景が表で語られるようになったように思います。
悔やんでも悔やみきれない戦争はどのように引き起こされたのか。
また、被害だけではなく、加害の事実と十分に私たちは向き合えているのか。
権力者が愚かというだけでは結論できない、同調圧力にくみする“凡庸の悪”というエゴは、私たちの暮らしの中で無自覚なうちに感染し、侵されていく。この自覚を持ち続けながら、戦前には絶対にしないぞという“今”を、戦後として守り抜きたいと強く思う敗戦から80年目の8月です。